東日本大震災から7年

2018年3月11日 | izumi | ソウルオブ東北

◼︎東北に幸あれ

震災から7年が経ちました。この激しい変化の時代、あんな大きな災害であっても風化しそうな記憶になってしまいそうです。しかし、私は7年前の今日に流れたあの衝撃の映像は忘れることができません。東北の方々の不安と恐怖を思うと心が締め付けられるようでした。こんな暖かい部屋で眠ることができる自分がいて、悲しみに暮れながら寒さに震える人がいて、こんな不平等なことがあっていいのかと嘆きました。

何ができるのかもわからず、震災から1ヶ月後には陸前高田に立っていました。被害にあった面積の広さに圧倒されました。かつて住宅であっただろう柱や建材がうず高く要塞のようにただただ広がっていました。夕暮れの中、もちろんナビなど無用なこと、その黒い塊が続く中を迷いながら走っていきました。ほんの一ヶ月前までここにたくさんの人が、笑い、語り、働き、暮らしていたんだと思うと、どうしようもない無力さを感じました。

すぐに団体を立ち上げ、地元のシェフの協力をいただきながら、東北の避難所に向かい始めました。大きな体育館で寝泊まりする方々、ただ静かにみなさんで助け合いながら過ごされていました。悲しくて悲しくてどうしもない心境だったと思います。それなのに、東京から来たと話すと「遠いところからありがとう」と手を握られます。みなさんに食事を手配し終わり帰る時には、おばあちゃんも子供達も「気をつけてねぇ」と手を振って見送ってくれました。一番大変なのはみなさんなのに、こうして気を使ってくれる人たち。あたたかい。

とても印象にのこっていることがあります。それは気仙沼の小学校の体育館に行った時です。皆さんに汁物を配っている時です。一人の男性が近寄ってきて、津波のことを話してくれました。「津波が来た時、おっかぁの手を握りおっかぁは俺の腕を掴んでいたのに、その手が腕からするりと抜けていって津波に飲みこまれていったんだ。その時のするりとした腕の感覚が忘れられ無いんだ。。。」と自分の腕をさすりながら話してくれました。たった一人、心が本当に痛み続けていたのだと思います。慰める言葉が見つかりませんでした。その後、数行のメールが送られてきました。そのメールには「親切にきてくれてありがとう」と書かれていました。携帯も何もない状態だったこと、名刺も何も渡していなかったこと、図書館のパソコンを使って私を探してメールをくれたのです。こんな風に東北の人たちはとても謙虚です。どこに行ってもみなさん優しいのです。
何度も東北に伺う度に、すっかり東北のファンになりました。

そして今、沿岸の風景も変わりました。道路が通り内陸からのアクセスが格段に良くなりました。町もできました、マルシエもあります。しかし、そこにはまだまだ人の匂いは落ち着きません。これからが本当の復興が示される時です。観光、産業、文化、教育、芸術、それぞれが育つためにはどうしたらいいのかを考えなければなりません。

こうして7年が経ちましたが、東北にお邪魔してなんのお役に立てたのかわかりません。ただ、これからも東北の幸を願うことは変わりません。東北に幸あれ。

岡部泉