復興とは

2017年3月12日 | izumi | ソウルオブ東北

◼︎地域特性を知ること

震災から6年経ち、いろいろなメディアから東北の復興についての発信があります。新聞に田老の防潮堤の上で5百人の人たちが手をつなぎ海に向かって祈りを捧げている写真が載っていました。田老漁協さんとは、親しいおつきあいがあり、漁協のH氏のブログも良く読んでいます。

田老という地区は度重なる津波の歴史があり、津波でんでんこと語り継がれているところです。二重の防潮堤があったところですが、それさえも役に立たず大きな災害に見舞われました。わかめで有名なところですが、わかめ最盛期であったことから、わかめの棚が流されて大打撃でした。今は立派な加工場ができて立派なわかめを皆さんで頑張って育てています。

東北と言っても、地域によってその性格は異なります。岩手といえどもまた沿岸の北と南、内陸でも北と南に分かれて、その地域の民族性というか、性格があるようです。私は岩手に6年通ってだんだんわかってきました。

昨日、岩手の友人からラインがありました。ぽつりと「震災復興、重い」と書いてありました。そうだろう。我々はメディアの中の東北を語っているのです。たくさんのコンサルティングの人たちが東北に入ってきて、いろんなことをしてくれたと思います。東京の物差しでは本当は計れないものがあるのではないかと思います。もっともっと地域の特性を知らないと復興事業は役に立てないのではないかと思います。

まちづくりも、入居する人が不足していて復興住宅が余ってしまう地域が多いと言われています。東北だけでなく日本の地域は過疎化が進んでいるのですから、震災を機に流出する人が多くなることはわかっていることなのです。まちとは不思議なもので、人がいて成り立つ仕組みが多いのです。学校も病院も商業施設も人がいて成立するものです。コンパクトシティどころか、それさえも可能にならないところが多いと感じました。

何もないけれどそこにあるものがある。一体それは何かを考えないといけないと思いました。人口によって考え方を変えないとコンパクトシティという概念だけではもうまちは成立しないのではないかと思います。まちではなく、それよりも小さい集団の仕組みがあるはずです。無い、しかし、あるものがある。

田老の海には田老らしい海があります。夜中に繰り出すわかめ漁。わかめを小船に沢山積んだころ朝日が昇ってきます。その朝日に収穫したばかりのわかめがキラキラと光っています。その光景は田老らしいものです。

復興とは一体何をもって復興というのだろうと良く考えます。たくさんの地域の種類と地域の特性があり、文化、産業、食材、歴史、風習、本当に多様なのです。だからこそ一辺倒の概念型のコンサルティングが通用しないのです。もっとミクロ目で価値を見つけ出さないといけないのだと思います。私も実際に現地でいろんなことをしてわかったことです。

防潮堤がいらないところもあるのです。もういらないよっていう住民。でも、もう決まってるからという国。復興の遅れは何なのか、まだ仮設住宅で暮らす人たちが三万人あまり。国は、本当に必要なことを分かっていなかったのだろうか。事なかれ的な習性のせいなのか。

私は主に岩手の沿岸に行くことが多いのですが、いつまでも忘れらないのは、2011年の4月、最初に避難所に食料を持って伺った時のこと。深い悲しみにくれる方々にこんな自分は、どうしたらいいのだろうかとビクビクする私に、おばあちゃんが「遠くからありがと、ありがと、」と手を握りしめてくれました。子供達は帰る時に「また来てね」って手を振ってくれていました。逆に親切にしてもらったようで、申し訳なく思いました。皆、辛抱強く優しいのです。だからよけいに心が痛く痛くなりました。

地域創生という言葉も、いつしか聞かれなくなりました。いつの間にかオリンピックの経済効果へと中央は動いています。地域は地域で地域なりに考えていかなくてはなりません。地域なりのサイズと個性を見つけることだと思います。6年が経ち、元には戻りませんが、復興と地域創生は同じように考える時期に入ってきたように思います。

田老には田老なりの創生があり、釜石には釜石なりの創生があるのでしょう。

そして地域性とは異なる大きな問題として。やはり原発を抱えることへの意識を再度、強く思うことだと思います。背負えないものを背負うリスクをもう私達は知っているのですから、悲劇や不遜を繰り返すことなく原発の存在を再考していかなくてはと思います。

毎年、この三月十一日の節目はこころを新たに、自分を正す日でもあります。いつまでも愛しい人を亡くした悲しみは消えることはないと思いますが、少しでも幸せと感じる時が増えますようにとお祈りいたします。

岡部泉